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う一つの流れに藤原氏になった例がある」を発見し写しが譲渡され申請に使用した。この得川の末だと藤原氏を名乗る特例ともいえる措置を得て、家康は従五位下三河守に叙任された(近衛家文書)。この先例とされたのは松平氏の祖とされる新田氏庶流の世良田三河守頼氏で、藤原氏となったのは嫡男有氏とそ
していたが、当初は正親町天皇が清和源氏の世良田氏が三河守に任官した先例がないことを理由にこの叙任を認めなかった。そこで家康は三河国出身で京誓願寺住持だった泰翁を介して近衛前久に相談した。 前久の対処により、吉田兼右が万里小路家で先例に当たる系譜文書「徳川(根元は得川)は源氏だがも
今回、家康は源氏の末裔だと言いながら実際に三河守に叙任されたときに「徳川三河守藤原家康」と書かれていましたが、それは今回の朝廷工作の担当者が藤氏長者の近衛前久だったため、源氏での任官はできなかったからだと言われています
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